Head wear(ヘッドウェア)
パナマ・ハットの由来
エクアドルが起源のパナマ・ハットの歴史は、数世紀前まで遡り、赤道付近に居住するエクアドルの人々が被っていたトキヤ草を編んだ帽子に端を発します。
16世紀に入ると現在のエクアドルがスペインの支配下になり、スペイン文化と融合して今のパナマ・ハットに進化していきます。赤道の日差しを避ける為、入植者の間でパナマ・ハットの需要は伸び続け、その後大規模生産が行われるようになります。
1914年にルーズベルト大統領が、パナマ運河を訪問した際に着用していたことから「パナマ・ハット」の名が知れ渡り、夏のファッション・アイテムとして本格的に愛用されることになったと云うのが通説です。
アメリカにおけるパナマ・ハット
20世紀最初の10年間は形式的な時代で、男性の衣服は地位の象徴だったと云われています。帽子も男性が選べる種類はものすごく多く、それぞれのスタイルには独自の個性があって、社会的地位の低い人達は被ることが出来なかったようです。
この頃のサマー・ハットでは、麻で作られたクラッシュ・ハット(Crash hat)が、シアーズ・ローバック社のカタログによると「世界で最高に涼しく、最も軽く、一番快適なサマー・ハット」だと云っています。
もちろんストロー・ハットの需要もあり、街着用の麦わら帽はツバが平坦でリボンが狭く、郊外や避暑地用では、山が丸くて通気孔が付けられたツバが広い型が人気だったとも記述されています。
またブルックス・ブラザース社の1915年版カタログでは、当時の帽子の種類がいかに多かったかが分かります。その多くは英国製で、何故ならそれは、「Messers Herbert Johnson & Co」や「J&G Lock」のニューヨーク地区独占代理店だったからだと云われています。その他には、イタリア製や日本製のパナマ・ハットも取扱っていたようです。
1924年3月号の「メンズウェア」誌が行ったパーム・ビーチでの服装調査では、ミディアム・グレイの三つ釦ジャケットとホワイト・フランネルのパンツにセニット・ストローハットが一般的で、次にパナマ・ハットでしたが、「パナマ・ハットを被っているお洒落層は、全てが最も高価に見える物を着用していた。」と書かれているようです。
当時の形としては山が角張り、ツバが広く、やや平べったい感じになっているのが特徴ですが、1930年代になるとオプティモ型のパナマ・ハットが流行していきます。その後、日本でも「ボルサリーノ」がハットの代名詞となり、現代に至っています。
ボルサリーノの歴史
1857年にイタリアのアレッサンドリアで、創業者のジョゼッペ・ボルサリーノによってフェルト帽の工房を設立したのが出発です。10人の芸術的職人達からスタートした工房も、4年後には60人の職人を抱え、成長していきます。
1897年、息子のテレジオ・ボルサリーノに経営を譲って引退しますが、1900年にはパリ万国博覧会でグランプリを受賞することになります。その後、ロイヤル・ファミリーを顧客に迎えるなど、高級帽子ブランドとして世界中にその名が広まっていきます。
19世紀には、上流社会の紳士達が地位を示す為に愛用したトップ・ハットなどハード・ハットだったものが、20世紀に入ると使用するフェルトもソフト化が進みます。そして現在のボルサリーノの原型であるソフト・ハットスタイルは、1940年代に完成したと云われています。
ちなみにボルサリーノは、1910年代(明治〜大正)に日本にも輸出されていたそうで、輸入元は不明ですが信濃屋もこの頃から取扱っていた可能性はあります。また1930年代のマルセイユが舞台となった1970年日本公開の映画『ボルサリーノ』、続編の『ボルサリーノ2』でさらに知名度を上げることになります。
参考文献
・スタイル社 エスカイア版20世紀メンズ・ファッション百科辞典(日本語版)
・男子専科 紳士が知るべきブランドストーリー 「ボルサリーノの歴史 前後編」
・パナマ専門店「Homero Ortega」ホームページ
・京都「トミヤ帽子店」ホームページ
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